岩根沢登山口から、烏川経由の
行者道(登山道)の紹介です。
右の貴重画像は当時の月山行者の姿です。
岩根沢三山神社からの林道終点にある月山登山口、手前にある駐車スペースは昔行人小屋の炊事人が休憩した台所休みと呼ばれた場所。
これより下は大正から昭和初期にかけての
月山巡礼登山の状況を古写真・古絵はがきを
編集したものです,お楽しみください。
直進すると本道寺コースへ合流、右へ折れると烏川経由月山古道。
月山巡礼最寄りの駅として栄えた三山電鐵間沢駅、巡礼者はこれより徒歩・バスなどで登山口まで移動する。
昔より使われた幅広いブナ林の道をのんびりと烏川まで下る。
巡礼者には部落総出で歓迎お迎えしたそうな。
烏川徒渉は平水でくるぶし少々の雨でも長靴程度、連日の豪雨の場合増水注意。
登山口まで歩く人、バスに乗る人それぞれです、着物のご婦人も多く巡礼しました。
徒渉後はつづら折りの道が続くがさほど長くは続かない。
金持ちの旦那衆は立派な旅館で前祝したのでは。
この辺りはブナの大木が多く残っている、少々の降水でカッパもいらないくらい。
岩根沢登山口は三山神社横から、これより長い巡礼登山が始まります。
一般の巡礼者はここの宿坊に泊り、早朝暗いうちに出発したそうです。
コース最大の難所鍛冶屋まくれと呼ばれる足場の悪いザラ場、旧馬立場。
昭和初期まで掛かっていた烏川行人橋立派な橋でした、今も徒渉点付近に痕跡が残ってます、画像の少年は飴をなめた鼻たれ小僧ですが、現在は立派な老人です。
楢の大木の根っこにつかまり慎重進む、剣岳蟹の横這いには」全然及ばない。
現在の小屋見広場近くにある不動滝、不浄の足を洗い清めて巡礼再開です。
現在は訪れる人も少なく、小屋見広場から一旦沢に下り行けますが、コースは整備されて居りません。
昔不動滝が見える場所だったが今は樹木が伸び見えない、しかし清川行人小屋は良く見える。
昭和初期まで現在の小屋附近に有った清川行人小屋、営業小屋として一膳飯めしを提供していたそうな、
小屋前にある石柱は現在も小屋前に残ってます。
修行行者が疲れ果てて亡くなったとされる場所、修行のすさまじさが浮かばれる場所。
小屋横の清川稲荷から月山を拝礼する女性登山者、背中のリックが時代を忍ばせます。
明治のマイルストーンとも言うべき、一丁毎に植えられた杉、環境が厳しく大木になれない。
月山山頂は眼の前です、巡礼者は感激で一杯。
六曲を過ぎれば霊気漂う天上界、下界とはお別れです。
山頂の月山神社、お参りすれば過去の罪は許されるはず。
これより湯殿山詣りです。
昔小屋と岩根沢を磁石式電話が開通しており、当時使用された配線碍子が今も登山道横に残されている。
これを過ぎれば小屋は間も無くです。
これより湯殿山へ向け姥ケ岳への下りです、今は無い鍛冶小屋は有ったのでしょうか。
故高松宮様がお泊りになった格式高い立派な山小屋、右の列にある清川行人小屋と同じ場所に建て替えられました。
姥ケ岳先の茶屋で一服、ここで天台宗から真言宗へ装束替えとなります。
ちなみに江戸時代羽黒・月山は天台宗へ改宗し、湯殿は真実一路でした。
てっぺんに稲荷神社がある見通しの良い展望所、小屋横からすぐ。通り抜けはできません。
右の列9.の画像と同じ場所です。
当時も月光坂の梯子場は難著でした、月山行者道で最大の難所です、大勢の行者で賑わってます、滑落負傷者が多勢いたはず。
女人禁制の時代にここまで入り込んだ女性が神仏の怒りをかい石像にされたとされる姥様、満月の夜に家さ帰りてえと泣きうめき声が聞こえると云う.
梯子場の横に湯殿山御滝と呼ばれる大滝が有りましたが、現在は崩落等でこのような大滝は見ることが出来ません。
拝礼所入口の様子、内部は今でも撮影禁止です。
生まれ変われる神秘な拝礼所です。
月山詣りの最後は湯殿山温泉ホテルで直来し(当時のコンパニオンにおだてられ飲めや歌え)故郷へ錦を飾って鼻高々帰宅で終了です。